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硫黄島日米決戦をしのぶ記念碑、カネオへ基地内に完成。

 第二次世界大戦において日米で双方が最も多くの犠牲者を出した1945年2月23日からの36日間の硫黄島決戦。この戦いで戦死した米海兵隊員6千人の英雄を祀る太平洋戦争記念碑の除幕式が3月16日、カネオへ海兵隊基地内で厳かに行われた。記念碑の創設案が出されてから半世紀後の実現であった。
 記念碑は戦場カメラマンとして有名なジョー・ローゼンサル氏が、硫黄島での日米決戦直後に米国星条旗を立てようとしている海兵隊員の姿を撮影したピューリツァ賞作品のブロンズのレプリカを、6千ポンドの花崗岩の上に乗せたもの。コネチカット州ニューイングトンの国立硫黄島記念碑のレプリカである。総制作費は60万ドル。
 ハワイでも太平洋戦争記念碑創設計画の委員会が1951年に組織された。当時の計画では「平和へのメモリアル・ブルバード」(現在のニミッツ・ハイウェー)の沿道に米4軍の記念碑を創る内容になっていたが、実際には何も実現しなかった。太平洋戦争記念委員会はその後、現実には何もしない組織として存続していた。
 アリス・クラーク現会長が7年前に会長に就任して、委員会の古い議事録を読み返して、同記念碑計画を知り、資金集めを始めた。
 硫黄島決戦で米海兵隊員は36日間の激戦で7千人が戦死した。そのほとんどの海兵隊員はカネオへ基地から出動した兵士たちである(日本兵の死者は2万2千人と記録されている)。
 クラーク会長は、50年前の計画の実現に奔走し、ニューイングトンの国立記念碑と同じレプリカ制作に必要な60万ドルが調達できた。
 3月16日のカネオへ海兵隊基地内での記念碑除幕式には関係者1千人余りが参加した。硫黄島決戦で生き残った海兵隊員も数人参列した。その中の1人、今年96歳の老除隊兵は、 「真珠湾攻撃も経験しました。硫黄島決戦はあの真珠湾攻撃が36日間も続いた激戦でした。よく生き残ったと思いっています」と、記念碑を見上げていた。
 なお、同記念碑の日本人観光客への公開は現時点では許可されていない。


協力:イースト・ウェスト・ジャーナル 
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